普通の先にある何か

ある雑誌で『安全を食べる』という特集をやっていた。一見おかしなこの見出しは今の時代だからこそのもの。最低限保障される食の安全が低下している事を表しているのだと思った。
私は戦国時代の文化や人の考え方が好きでよくそのような本を読むのだが、戦国の文字が象徴するように武士が強く農民の弱い時代であり、大飢饉が度々起こっている。今と昔を比べる際には技術云々の違いも大きいと思うが、農民や漁民をないがしろに考える世の中だからこそ起こりうるものと考えられる。地位や資産の多い民は必要最低限の食に困る事は無いという昔、お金のある人は安い鰻や牛肉や野菜に触れる機会が少ないという今…このようないつの時代でもある食に関する格差を考えると、現在の食品企業の不正や、輸入に頼るしかなくて仕方なく海外から入ってくる安全性の低い製品(全てではないが)によって危惧される不安というものは、実質的には現代版の飢饉と言ってもおかしくないのではないかと思ってしまった。黄金の10年と言われる1997−2006の経済がじわじわ上昇している時代は、多数の低賃金労働者によって支えられた結果であるが、その支えてきた張本人たちが今になって"食"という分野で危機に迫られている。支えられた一部の勝ち組は悠々と本物志向。今も昔も人間の作る世の中とは同じものみたいだ。
ここからは食だけに限定される事では無いが、多くの人は不安と共に生活していると思う。私も、多額の借金やスケールの大きすぎる将来の自己像を目指すうえで不安に悩まされている一人。このような不安の多い時代に人は、何を求め喜びを感じるのだろうか。
求められている喜び、それは一般的に考えると"安全"・"安心"ではないかと考える。格差の広がった世の中に勝ち組を目指し、手段を選ばない人達の横行が取り沙汰される今、その被害の大きさに臆病になっているからこそ求められるもの。保障されて当たり前の事が当たり前でなくなっているのだ。本来ならば"当たり前"の次のステップである"何か"、そこに喜びを感じるものだと思いたいが、"当たり前"を無視してその先の"何か"に目が行くと周りに不安を与える側になりかねないというのが今の現状であり、そのような人が今の不安の多い世の中を作り出しているのだ。"何か"とは、人それぞれの価値観によって違うと思うが、お金だったり自由だったりするのだと思う。
私が感じる喜び、それは普通に生活できるということ。借金を抱え節約を強いられる生活が普通か?と突っ込まれそうだが、それでも感じる喜びは大きい。自分のしてきた不摂生を見つめ直したからこそ感じる事のできるこの喜びは、「自分は社会人として真面目にやっている」と自分を褒めることから生まれるものだ。甘え・誘惑から自分を引き離す、周りに流されない自分らしさを持つ…このような"当たり前を無視してその先にある何かを求めていた過去からの脱却"によって、自分自身に感じる"普通さ"がとても嬉しく感じる。


自業自得である私の"普通"とは次元が違うものであるが、世の中が"普通"を求めているのは確か。全く不安の無い時代が来るとは思わないが、せめて"普通"ではなくそれ以上のものを求める時代になってくれればと思う。
私は借金ゼロを求めているが、ただでさえ不安の多い時代に自ら不安を上乗せするような馬鹿な真似をした過去を悔い、早く本当の"普通"に返り咲きたいものだ。そして、その"普通"の先にある"何か"をもう一度考えてみたい。

只今の借金5892000円 総返済額108000円 
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