バッシング、そして・・・

今日も元気に自転車通勤。昼はまだ日の光でそう寒くも感じないが、仕事が終わって帰宅する頃は吐く息が白くなる寒さ。自転車でそんな冷えきった空気の中を走っていると、防寒できない顔の部分は寒さというよりも痛みを感じてしまうという今日この頃だ。
しかし、それは家に着くまでの事。家に帰ると妻が温かいご飯を用意し、私の部屋にある石油ストーブに火をつけて待っていてくれる。
このような小さな幸せを大きく感じさせてくれるきっかけが借金だったというのは皮肉だが、貧困生活を強いられているにも関わらず気遣ってくれてる妻に、そして今このような生活をできている事を、一時的に消費者金融の借金を肩代わりしてくれた貸主様に感謝する気持ちで一杯だ。


今は寛大な目で見守ってくれている私の周囲の方々だが、借金を打ち明けて間もない頃の私へのバッシングはそうとう耐えた。普段優しい方々がこうまで鬼になれるかとも思ったほどだ。今考えれば、その心を鬼にしたバッシングのおかげで今の自分があり、お金や家族や社会に関して無頓着だった私の人間性を変えていってくれたのだと思う。
"バッシング"と言えば攻撃する側が悪いように思えてしまうのだが、それは大きな間違いだと私は思う。私の中での"バッシング"とは"非難"というよりも"評価"であり、"厳しさ"は"愛"の裏返しなのではないかと考える。
もし私がバッシングされずにパッシング(軽視・素通り)されていたら今の私は無かった。"愛"の反対語は"無関心"と言うが、堕落していた私に対して関心を持ってくださり、"悪い"の評価を下してくれた事は私にとって過失の大きさを認識する事に繋がり、そこからの巻き返しを誓う決定的な要素となったのだ。パッシングされていれば事の重大さに気付く事無く、周囲とは裏腹に自分だけのうのうと気楽な生活を続けていたのかもしれない。

良い意味ではもちろんありがたいが、悪い意味でも関心を持たれ評価されるという事は非常に尊い事だと思う。手厳しく悪意さえ感じてしまうような非難でも、それは素通りできない"愛"があっての事であり、それがあるから評価される側は更なる躍進のヒントを掴む事ができる。立場の有利・不利からのバッシングもあるが、これも"共存の為"と考えれば"愛"に違いは無く、そこから双方の過失の認識・和解へと発展していくのだと考える。


私の今・・・それは周囲の方々の厳しい"バッシング"から成り立っている。これからもその評価を正面から受け止め、愛に応えていかなければならない。
それを怠る事で"パッシング"されるようになり、挙句の果てに社会から存在の価値を失い"ナッシング"とならないように。

只今の借金5868000円 総返済額132000円 
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