頑張るとは

今日も私の一日は自転車通勤から始まった。厳しい寒さの続く近況に正直言って「車で通勤したい」というのが本音なのだが、一日の始まりを"妥協"から入るのでは"自分制御"を心掛ける私にとってよろしくない。もともと自制心の弱い私は一度決めた約束事に"妥協"がチラつく事はもの凄く多いのだが、小さな事一つ一つを乗り越えていく過程でそれが習慣となり、人格となると信じて頑張っている。

私は"頑張る"という言葉を今までは"逃げの一手"として多用してきたような気がする。何かミスをして注意された時には「次からは頑張ります」、勉強や仕事においてやる気はゼロでも周囲への体裁を取り繕うだけの「これから頑張ります」、自分自身で決めた約束事に対して妥協が生じた時の「明日から頑張ろう」、借金に借金を重ねる時には自分への慰めで「頑張れば何とか成るさ」・・・これらのような緊急避難先である"頑張る"について"頑張った記憶"はほとんど無い。
もともと"頑張る"とは、【頑(かたく)なに我を張る】という『自分の固い決心に基づく方針』を貫き通す言葉として使われるのだが、私が逃げの一手として使ってきた今までの"頑張る"にはそのポリシーが無かった。流されるまま・その場凌ぎの都合の良い上辺だけの言葉だった。
現在、借金返済という逃げられない状況から打ち出したポリシーが今の私には存在し、それに基づいた約束事や作業をこなす毎日を送っているのだが、過去のような実績があるだけに自分自身でも『頑張る』という言葉に"嘘くささ"を感じてしまうというのが今の正直な分析だ。周囲に対して"張る"ほどの自信が無い"我"という自身の問題なのだと思う。
では、その"嘘くささ"をどうやって"実体"に変えていくかのかが鍵となってくる。そこで出てくるのがもう一つの"頑張る"の意味。
"頑張る"にはもう一つ『眼張る(見張る)』という意味もあって、これを私は自分自身を監視する事と考える。この意味で考える"頑張る(眼張る)"とは、"我"を"張る(大きく見せる)"上で、実質以上に上辺だけの誇張された自分が出ないように監視する事。その誇張された自分が"嘘くささ"の正体なのだと考える。過去の私は自分を過大評価していたのだ。だから「頑張る」という宣言はいつも能力の範疇を超えたものになり、未遂に終わっていたのだと思う。そして、今の自分が「頑張る」発言した時にたまに感じる嘘くささは、「現状ではできそうにもない」というもう一人の監視する自分の正直な意見からくるものなのかもしれない。
しっかりと今の自分を見つめ、知り、能力の範囲内で努力する・・・これが"頑張る"の真意なのだと思う。
TVゲームでもそうだが、始めのうちは主人公は弱い敵を倒すことの繰り返しでレベルを上げ、徐々に目標となる敵に向かって話を進めていくものだ。最初からクリアという結果だけを求めていては、その道のりの長さに"妥協"が生じ、中身の無い裏技を求めてしまいがちとなってしまう。現状で可能な小さな"過程"の繰り返しが道となり、道が一本化されることで初めて"結果"が見えてくるのだと思う。その道が"我"というポリシーであり、そこから外れずに前進する事、それが"頑張る"なのだ。



"頑張る"という言葉は、やれる事を無理せず確実に進めるという地味なもの。決して、大きく先を見た派手なものであってはいけないと思う。
私の借金返済を見たポリシーの一つである自転車通勤とは、大きな効果を見込める派手なものではない。だが、継続する事でそれは自然と完済へ向かう道となり、頑張った証となっているはずだ。

只今の借金5858000円 総返済額142000円 
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