目には目を、歯には歯を

昨日は『がんばれ!橋下弁護士!』をテーマに裁判と弁護士のあり方について書かせてもらった。光市主婦殺人事件を通して、近年のぬるかった司法が揺らぎ変わろうとしている感を受けるのだが、なぜここまでこの事件は大きく報道され、司法を根底から変えようとするのだろうか。
それは最近問題になっている死刑制度の討論から来るものだと思う。弁護士がいかに加害者を救えるかという視点でしか見られなかった今までの裁判に対し、この事件は遺族である本村さんが被害者側としてこの事実に噛み付き、自らが意見すると言う稀に見るケース。そして、報復・復讐という日本では遠慮されがちな被害者としての本心を公にぶつけ、加害者の極刑を望む意思を明確にアピールしているのだ。
この死刑討論については、様々な意見が賛成派と反対派で飛び交っている。実際に"報復・復讐"という言葉を目の当たりにした最近の例ではアメリカの航空機テロが記憶に新しい。この時、アメリカがすぐさま報復という行動に出た事に関して私達日本人はどのような感想を持ったのだろう。
私は正直、"野蛮・暴力的・非道徳的・単純"・・・このような感想を持った。飽くまで他人事、自分をクリーンなイメージに・・・このような"自分が可愛い"精神を、"平和主義・道徳的・人間の理想の姿"といった都合の良いものに勘違いしていたのかもしれない。報復や復讐とは動物的で人間らしくないものだと。
話を死刑討論に戻すが、そもそもなぜ刑を執行する国家があり司法があるのか。これはトマス・ホッブズの『万人の万人に対する闘争』で説明できる。

人間は自然状態にある時、"自己利益"や"自己保存"という本能において有限な物質に対して無限の欲を持ってしまう。そして、それは他人と暴力によって争う事であり、この積極的な手段にでることは善悪以前に肯定される人間ならではの特性、"自然権"となる。その場限りの危機回避しか考えられない動物と違い、人間は未来を考える上で限りのある物質(食料や金銭など)を争ってしまう本能がある。人間として未来の自己保存を考えるということ・・・それは他人より優位に立つこととなる。

人間は生まれ持って争う宿命にあるという事だ。そして、ホッブズはこう続ける。

この争いには決着がない。なぜなら人間には絶対的な能力の差が無いからだ。そして、人間は争いの中で"他人の暴力による死"を極端に嫌って避けるものである。しかし、この他人による暴力も他人の自然権と考えることができる。自分と他人の自然権の矛盾・・・これを解決するのが自然法という、理性を国家に委ねる国家理性である。これは個人の自己保存本能や暴力の放棄ではなく、共存に基づく自然権の管理、すなわち"理性"を一つの主権としてある国家に委ねる事となる。

このホッブズの言う国家が裁判や法律などの司法であり、私達個人が持つ報復・復讐の概念は裁判を通して国に代行してもらう形となるのだ。『目には目を、歯には歯を』という言葉がハムラビ法典にあるように、報復・復讐の概念は一人歩きしている"理想の人間像にあるべきモラル"を語る前に人間として最低限持つべき考えであり、それを理性である国の裁判が"暴力による野蛮な報復"という名目から、"実刑"という筋の通ったものに変えるのだと思う。
よって、『犯罪には見合った実刑を・死には死を』、これが死刑の持つ意味なのだと思う。"モラル・道徳・平和・野蛮・・・"このような事を考える事も大切だとは思うが、悪い人を救うよりは刑を持って国家が筋を通して罰する事のほうが、委ねられた理性を収束する上で理に叶っているのではないかと思う。
光市主婦殺人事件の遺族である本村さんがこんな発言をしていた。
「もし死刑にならないのならば今すぐ犯人を社会に戻してほしい、自分の手で殺します」
これが現実になる事こそ悪夢であり、国家として日本の司法は許してはいけないのだと私は思う。
『復讐が復讐を生む』・・・こんな言葉があり、実際に世界の戦争はこの繰り返しでおきている。報復・復讐という概念を浄化し、理性で本能を抑える事こそが平和につながり、モラルの向上となるのではないだろうか。間違っても上辺だけの共存を考えた空虚な平和思想や、一部の弁護士による自己の利追求の為に、行き過ぎた実刑の軽減の示唆を許してはいけないのだ。
報復・復讐とはどうしても突発的な感情論と思われがちであり、そこに他人事である私達は"野蛮・非道徳的"さを感じてしまうのかもしれない。しかし、そのような他人事による感じ方こそ空虚な感情論であり、世の秩序を乱す原因となっているのではないだろうか。
このような考え方から死刑討論については、『無くそうとする意見は、真の意味ではモラルを追求している意見ではない』と私は思う。


さて、これは借金返済ブログ。
私の借金も『目には目を、歯には歯を』によって、今の極貧・努力生活という実刑が科せられている。豪遊・浪費という私の"他人より優位に立ちたい"という自然権は"借りたものは返す"という社会的な理性によって制限される事となったのだ。
報復とは、「不当な行為に対して不当な行為で報いる事」。不当に得たお金で不当に自由を堪能した私が、普通の生活から見たら不当と思える今の生活を余儀なくされている・・・社会からの報復である。これが委ねられた理性による共存であり、自分と他人との秩序なのだと思う。
もしも多重債務というものが犯罪で、それに見合った実刑が極刑だとしたら・・・私はおそらく消費者金融に手を出さなかったはず。この考え方がいろんな意味での"平和"となっていき、その秩序を乱すものは罰せられて当然なのだと思う。
私は借金のせいで今の生活という重い罰を受ける事となったのだが、その刑の重さがあるから反省する事が多々あり、見えてくるものが多くある。そういう事を考えても、「かわいそう」だとか「非道徳的」だとか本質を見ない一見優しくクリーンに見える空虚な感情論は必要無く、『目には目を、歯には歯を』のような現実が秩序を守る上で必要なのだと思う。

只今の借金5844000円 総返済額156000円 
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