責任のサイクル〜自分自治〜

私の借金生活は私自身の自治に管理されていると言っていい。全ての借金返済に関する努力や結果、あるいは怠慢や妥協、全てが私一人の言い分や表現という処理で周囲へとアピールされている。
それは私一人の"中央集権"とも言い換えられ、時にそれは自分で自分を成功へと引っ張り上げる政治力となり、時には自分で自分を甘やかす接待汚職ともなり得る。
このような事を認識した上で、今の私が気を付けなければならない事・・・それはレスポンシビリティ(執行責任)とアカウンタビリティ(説明責任)という二つの責任感の持ち方となる。

今日は私の借金生活自治における"レスポンシビリティ"と"アカウンタビリティ"について書いてみる。
まず、レスポンシビリティ(執行責任)についてだが、これは今までこのブログで書いてきた"理想の自分"や"理想の人格"を目指す為に、口だけになっていないか・実際に今何か行動をとっているかという事だ。借金生活を脱する為に決めた"自分と自分の約束"の執行責任だ。
【責任=立場上当然負わなければならない義務】という事で、最下部に記してある自己中心的な行動による借金の額により、私は社会的にも家庭的にも自己保身の為にも負うべき義務が人より多くあると考える。「もうギャンブルはやりません」・「借りたお金は必ず返します」・「有言実行を怠りません」・・・このような事を私は一丁前に発言してきたわけだが、その全てが"自身"と"周囲で私に関わる人達"への公約であり、執行責任となる。
このような執行責任を果たす上で、"ずる"や"甘え"によって私の自治を腐らせない為に必要なのが"アカウンタビリティ(説明責任)"だ。レスポンシビリティが私自身の資質やモラルから作られるのに対し、アカウンタビリティはそれに関する過程の報告である。
「約束の執行を継続できています」という報告もそうなのだが、それよりも大事なのは「約束を守れませんでした」という報告がアカウンタビリティの要。人は得てして自分の過ちを認める事が苦手・・・そこに中央集権や自治の怖さがあるのだと思う。私の場合で言えば「楽したい」・「外面は良くしたい」という"甘え"と"ずるさ"が怖さと言える。周囲に対して壁を作り、それを監視する事が容易ではない単独の権限は、「ばれないだろう」の継続が実際に表面化した時には既に手遅れとなってしまう。私の借金もこれが原因で致命的なダメージを受ける事となったのだ。


さて、この二つの自分制御における責任は一体誰に対する責任なのかを考えてみる。消費者金融の借金を一時的に肩代わりしてくれた貸主様か、それとも私と共に貧困生活を余儀なくされている妻なのか、それともそれらを含む社会全般に対してなのか。
私の見解では、上のどれでもなく自分自身に対してのものだと思うようにしている。管理されるものではなく、自分自身でけじめをつけ存在を維持していく為の責任なのだ。自治とはそういうものだと思う。
特に私の場合は自分自治の腐敗度は相当のもの。これからの人生で他から責任追及を迫られた時には既に私は朽ち果て、形の無いものとなっているという緊張感がある。お金、生気、信用、立場、存在する意味、希望、可能性・・・全てがだ。落ちる所まで落ち、その底辺に存在するならまだいいが、そこから落ちたらもう這い上がれない。


"レスポンシビリティ(執行責任)"と"アカウンタビリティ(説明責任)"というシステムは、私の借金返済生活に限らず誰もが考えなければいけないと思う。これをおろそかにしてしまうと人間としての成長はない。
社会における最低限の執行責任にただ漠然と流され、それに対する他からの説明責任追及だけを意識するのではなく、自らの執行責任を意識の高いものとし、他からの干渉を受けないよう自分の中で説明責任を果たし解決していく事が大切なのだと私は思う。
「ああしなさい、こうしなさい」と言われてばかりではつまらない。そう言われないように自分の中で責任感を強く持ち、二つの責任をサイクルさせていくことが、人としての成長と言えるのではないだろうか。

只今の借金5844000円 総返済額156000円 
゚・*:.。. .。.:*・゜ご訪問に感謝いたします。゚・*:.。. .。.:*・゜
ランキングのご協力、よろしければクリックお願いいたします。
にほんブログ村 その他生活ブログへ  人気ブログランキングへ