いただきます

今日の晩御飯は白飯・味噌汁・秋刀魚焼きだった。名残りの秋刀魚は出始めの頃に比べて脂が落ちて身が引き締まり、青魚特有の味と食感が強調されるものだった。大根おろし、白飯、味噌汁と脂のおちたさっぱりとした秋刀魚の組み合わせは日本の食文化をしみじみと感じるものであり、質素ながらもそんな食材の味の変化に季節の移り変わりを感じ、秋の名残りを楽しむとともに寒い冬の本格的な到来も感じたのだった。
食事の際にする挨拶で「いただきます」という言葉があるが、これは普段どのような気持ちで使われているのだろうか。作ってくれた人への感謝のしるしとして使う事もあると思うが、普段は形式的な挨拶として何気なく使っているのがほとんどだと思う。実際この言葉の語源由来を調べてみると、昔の人が位の高い人から物をもらうときに頭の上で受け取った事が始まりとされ、人の頂(いただき)を頭の上として考えた事から、そして神仏に供えてあったものや位の高い人からもらったものを食べる時も、恐れ敬う精神から頭上に乗せるような仕草をしていた為、それが受継がれて食事の挨拶が「いただきます」となったようだ。
私も食事の時は必ず「いただきます」をするようにしている。何年か前までは形式的な挨拶に過ぎなかった「いただきます」だが、今は食事を用意してくれた人への感謝の気持ちはもちろん、ある事をきっかけに私の「いただきます」は定着することとなった。
それは車の中で何気なく聞いていたラジオだった。もう何年前のことだか忘れてしまったが、永六輔さんが熱心に話している中に私の「いただきます」定着を促す内容があった。

生命は生命の犠牲の上に成り立っているのです。
【あなたの命、私の命にかえさせて"いただきます"】なんですよ。

と。
私はこれを聴いた瞬間、とても感動したのを覚えている。確かに一昨日食べたものも、昨日食べたものも、その日の朝食べたものも"生命"だったからだ。それから私は食べ物を目の前にすると、たまにこの言葉が頭に思い浮かぶようになった。
今になって考えるとこれは語源由来に関して何の根拠のないもので、昔からの風習が本当の語源なのかもしれない。だが、この"いただきます精神"に学ぶ自分以外を敬う気持ちが大切なのではないかと私は思う。私の為に犠牲になった生命に対して、世の為にならない好き勝手していた頃の自分はやはり反省しなければいけないし、それが当たり前と思ってはいけないのだ。
何事もまず自分ありきではなく周りあっての自分という捉え方で、私は自分制御を心掛けていかなければならない。単なる挨拶に過ぎない「いただきます」も、考え方や意識の仕方によって人間性を作り上げる土台となるのだ。


旬を過ぎて脂のおちた秋刀魚に不満しか感じないのか、それとも違う感性で美味しさを発見する事ができるか、そして感謝する事ができるか・・・「いただきます」のたった一言であるが、どんな意識を持つかで人の感性は貧しくも豊にもなっていく。
前向きに生きるヒントはいろんな所に隠れているものなのだ。

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